空気
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素晴しい!なんと素晴しい!
意識を否定しながらかのような文化に携わる矛盾、これが恐らく他人にとって一番ssnの不可解な部分であったと思う。
この点については単純で、要するに探求のためである。
例えばメタルなりクラシックなりというのを知らない者がそれらを否定したところで説得力も何もないのと同じである。特に何かのゲームなどでは、時にアンチは信者よりもシステムやストーリーに詳しくなる、というのも少なくないそうだ。
ある事物や文化を嫌ったり、特定の考え方に反証したりするためには、然るべき原因や根拠があるべきである。
それを明確に、体感とまとまった理論によって理解することが目的なのである。
意識に関しての話というのはプログラミングを考えればわかりやすい。
例えば人がゴッホの絵を見たとき何が起こるかと言うと、まず眼球の底にある網膜上の視細胞がゴッホの絵が放った光エネルギーを然るべき電気信号に変換し、脳に送られる。脳がその情報を受け取った段階で人はその絵を認識する。これによりその絵の存在がこの世界において確定される。
それではここで人は芸術作品を見たり聴いたりしたときには、そこに含まれる作者の伝えたかったメッセージを想像するのである。ここまでは当たり前だが、ここから面白くなる。
まず絵を見たときそれの要素、つまり何を描いているか?構図は?色づかいは?タッチは?などからそれを読み取ろうとする。
例えば色づかいを考えるとすると、それだけでも多くの可能性が秘められている、もっと正確に言えば色々な解釈が可能になってくる。
絵に関しては素人なので稚拙な内容になるのは否定できないが是非お付き合い願いたい。
まっとうな色をまっとうな使い方をしていた場合、作者は正直に何かを表現しようとしていたのではないか?もしくはそうではない可能性もないか?
不自然に明るかったり暗かったりする色を多用している場合、作者は何を表現しようとしていたか?社会批判か?自己嫌悪か?
これらの一つの要素でも非常に多くの解釈があり、さらに要素そのものも複数あるわけだから、様々な解釈が可能になってしまうわけだ。
さてコンピューターにこれが可能なのか、というとプログラムでこういう真似をさせるのは意外と出来る。むしろ人間が、コンピューターとは違う方法でそれらを考えていることを証明する方が圧倒的に困難なのである。
当然である。コンピューターにそれらをやらせようとする場合、要素を1つずつ解釈などのデータを入れる方法をとるが、人間も同じように学習したり学んだりしてストックした記憶からそういう解釈が生まれているのだから。
一つの要素や作品全体からの解釈を引き出すとき、人は教養という記憶を問われる。
それに対してコンピューターはデータが必要になる。どちらも変わらないのだ。
ところで質問するが、世の中の大半の人は情緒や感情といったものが重要だと思っているようだが、一つ聞きたい。
意識が大脳を支配しているのか、それとも大脳が意識を支配しているのか。
上記の大半の人ならば前者を選ぶであろう。しかし電気的なやり取りしかしていない大脳を、意識はどのように支配しているのか?
原理的にそれはありえない。
しかし大脳の働きによって意識や感情が生じていると考えた場合、それはそれでわからなくもない。
もし意識が存在するとすれば、の話ではあるが、大脳の天文学的に膨大な演算処理の生み出すカオスフィールドが意識を生み出しているとすれば、意識によって大脳を支配する事、つまり意識によって我々の体を動かしたり能動的に機能させることは不可能ではないか?
文化や歴史が意識の存在の証拠になる、とはいっても状況証拠だけでは証明には不十分である。
意識を否定しながらかのような文化に携わる矛盾、これが恐らく他人にとって一番ssnの不可解な部分であったと思う。
この点については単純で、要するに探求のためである。
例えばメタルなりクラシックなりというのを知らない者がそれらを否定したところで説得力も何もないのと同じである。特に何かのゲームなどでは、時にアンチは信者よりもシステムやストーリーに詳しくなる、というのも少なくないそうだ。
ある事物や文化を嫌ったり、特定の考え方に反証したりするためには、然るべき原因や根拠があるべきである。
それを明確に、体感とまとまった理論によって理解することが目的なのである。
意識に関しての話というのはプログラミングを考えればわかりやすい。
例えば人がゴッホの絵を見たとき何が起こるかと言うと、まず眼球の底にある網膜上の視細胞がゴッホの絵が放った光エネルギーを然るべき電気信号に変換し、脳に送られる。脳がその情報を受け取った段階で人はその絵を認識する。これによりその絵の存在がこの世界において確定される。
それではここで人は芸術作品を見たり聴いたりしたときには、そこに含まれる作者の伝えたかったメッセージを想像するのである。ここまでは当たり前だが、ここから面白くなる。
まず絵を見たときそれの要素、つまり何を描いているか?構図は?色づかいは?タッチは?などからそれを読み取ろうとする。
例えば色づかいを考えるとすると、それだけでも多くの可能性が秘められている、もっと正確に言えば色々な解釈が可能になってくる。
絵に関しては素人なので稚拙な内容になるのは否定できないが是非お付き合い願いたい。
まっとうな色をまっとうな使い方をしていた場合、作者は正直に何かを表現しようとしていたのではないか?もしくはそうではない可能性もないか?
不自然に明るかったり暗かったりする色を多用している場合、作者は何を表現しようとしていたか?社会批判か?自己嫌悪か?
これらの一つの要素でも非常に多くの解釈があり、さらに要素そのものも複数あるわけだから、様々な解釈が可能になってしまうわけだ。
さてコンピューターにこれが可能なのか、というとプログラムでこういう真似をさせるのは意外と出来る。むしろ人間が、コンピューターとは違う方法でそれらを考えていることを証明する方が圧倒的に困難なのである。
当然である。コンピューターにそれらをやらせようとする場合、要素を1つずつ解釈などのデータを入れる方法をとるが、人間も同じように学習したり学んだりしてストックした記憶からそういう解釈が生まれているのだから。
一つの要素や作品全体からの解釈を引き出すとき、人は教養という記憶を問われる。
それに対してコンピューターはデータが必要になる。どちらも変わらないのだ。
ところで質問するが、世の中の大半の人は情緒や感情といったものが重要だと思っているようだが、一つ聞きたい。
意識が大脳を支配しているのか、それとも大脳が意識を支配しているのか。
上記の大半の人ならば前者を選ぶであろう。しかし電気的なやり取りしかしていない大脳を、意識はどのように支配しているのか?
原理的にそれはありえない。
しかし大脳の働きによって意識や感情が生じていると考えた場合、それはそれでわからなくもない。
もし意識が存在するとすれば、の話ではあるが、大脳の天文学的に膨大な演算処理の生み出すカオスフィールドが意識を生み出しているとすれば、意識によって大脳を支配する事、つまり意識によって我々の体を動かしたり能動的に機能させることは不可能ではないか?
文化や歴史が意識の存在の証拠になる、とはいっても状況証拠だけでは証明には不十分である。
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