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だから私の言うように…自然科学は人文科学よりも上部構造であることは明白なのです…

むしろ自然科学で曖昧な部分をこじつけて自己や他者問わず安心する、もしくはさせるために生まれた概念なのです…。自然科学ですでに決定的でない論理を積み重ねているにも関わらず彼らは直感でものを語ろうとする…。

自然科学も人文科学もキリスト教も儒教もオウム真理教も確かに宗教という点では同じです。しかし仮に自然科学が「正当」に宗教であるとされた場合、現代人は全てその信者であるべきなのです。何故なら彼らは間違いなく文明や技術としての科学の力…つまり人の力により生きているのだから。

そして人が生きているというのはそれに霊魂があるからではなくてそれが物理的に動作しているからなのです。生命にハードウェアという概念は在りません…生命はすべからくソフトウェアとして、アプリケーションとして動作しています。生命は遺伝情報に生かされているに過ぎません…自慰や性交に快感を覚える限り、欲望がある限りそれは生命です…。欲望が無いとしたらそれは遺伝子に歯向かう異端として消滅することになります…何故ならその個体は子供を造らないからです…。


問題なのが現時点での我々の科学力ではその動作がまったくもって理解出来ない点が多々あることです。これはいけません…しかし自然科学にとってわからないというのは必然です。量子論においては光を観測に用いる我々の技術では粒子を調べるには限界があります。そのような原理的限界のみならず人間はその処理能力が低すぎる…さらに人間はドーキンス氏の言う通り合理的でない部分がある。まぁそれも考えてみれば不思議ではない。何故なら負のエントロピーを貪る生命が自然の在り方と反する状態となるのは珍しくない、むしろ我々や我々の言う生命の存在自体が不自然なのだ。


我々に非合理で不可解な特徴があることはわかった。しかし本質は何故非合理なのかではなく、その具体的な動機である。

そう、人というのは時々目から水を流しあらゆる物事を曖昧に終わらせる。当然目から水を流すのは脳からの信号によるものだが、何故脳がそのような状態になるのか、脳は何のためにそのような状態になるのか、これが自然科学ではわからない。どうやら特定の薬物が脳内に分泌されているというようなことはわかっているが、それで直接この疑問が解決するわけではない。

そこで人文科学がのさばってくる。人の精神やら霊魂やらわけのわからないことを持ち出す。たしかに量子論にとっても非常にそれとよく似た約束事は必要である。デカルトも同じような立場であったはずである。全ては約束事だ。

シラフでコレが書けるってスゲエな
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