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よっしゃまとめや。ちなみにレオンくんのヨレヨレ白衣+耳+半ズボン+白衣のポケットに丸められた書類、という2のオフィシャル画像は本当にツボ抑えてるんだよ。鎖骨が無いのが少し惜しいけどまぁこれだけまとまってるんだから仕方が無い。俺はケモ耳少年を作るぞー!JOJOぉー!
キリスト教において神は自分に似せて人を創った、と言われている。そして神は様々な動物や植物、そして海と大地など人間が生きられるような環境を作った、とされる。これらの『神の能力』をにはいくつか特徴がある。それは『神は生き物を一から創造することができる』、そして『神は世界を創ることができる』ということである。ただこの考え方は科学においてはダーウィンの進化論という説得力のある学説によって否定されている。しかし重要なのは、『人間は、科学の力でその2つの能力を具現化できるほどに進化した』という事実だ。
自然科学には未解明の部分も少なくないが、人間は間違いなくその本懐に近づきつつある。既に人間は遺伝子組み換え植物のように、人間が欲した形質を持つ生物を発明し製造することが可能になっている。まだ技術として完全ではないがデザイナーベビーと呼ばれる、親の欲する通りの能力や特徴を備えた子供をつくることが将来可能になると言われている。人間が生命を企画立案できる時代がもうすぐに来る。いやすでにその時代は始まっていると表現する方が正しい。
しかし、ベースとなる生命にサブとなる要素を持つ生命を組み合わせるやり方では、人間がDNAを理解したとは言い難い。真に人間がDNAを理解し神の力を得たというのは、人間が一から生命を製造したことを指すべきだろう。それは要するにDNAないし何らかのプログラムを作製するという意味だから、プログラム本体は非常に大きいものとなるだろうしそれを扱うコンピューターやDNA製造ラボも大きな規模で必要になる。しかしルールさえ見つけてしまえばさほど難しくは無いと思われる。現に生命の製造はコンピューター上のシミュレーションの段階ではある程度成功している。
1987年進化生物学者のトム・レイは人工生命ティエラと呼ばれる、「自己複製」「死」「突然変異」の3つの生命の特徴を持たせたプログラムをコンピューターの仮想空間上で長時間動かした。すると複数の種類のプログラムに進化しそれぞれが別々の知能を持った、という。生命の定義が出来ない以上これを明確なソースにすることは出来ないかもしれない。しかし我々のやろうとすることに十分に参考になる事例であろう。話は反れるが有機化学では必要な性質を持った素材や特定の能力に特化した薬剤を作ることが求められている。これからの生物学はそれと同じよう必要とされる能力を持つ個体や組織を作ることに活かされるべきである。
では話を変えて生命の合成、生命創造には何が必要なのか。生物の創造はスケールの差こそあれ、化合物の合成と同じである。生命の根源たるDNAを合成しそれを何らかの方法で生命として「生きた」形にすればいい。ただしその基本的なルールは同じであろうが生命の場合はそのスケールが莫大過ぎる。塩基対を数珠繋ぎで一つ一つ組み合わせて行くのでは埒が明かないが、既存のDNAを組み合わせるというのは既に実現してしまっている。まぁそれでニッチを獲得できるような存在は生み出せていないのかもしれないため、それを研究するのも十分に有意義である。しかし私の目指すところはそれとは違い、神が原始のスープからRNAを作り出したと同じように人間がそれを作り出せるようになることである。
生物の定義は出来ない。けれども人間が生物を作り出すにあたって生物である仮の条件をつけなければならない。それは自己保存本能と自己複製と死である。自己保存とは要するに自分を「生きた状態」に維持する本能を言うがそれは単純に、RNAやDNAの周りに膜を作りそれが散乱してしまうことを避ける、というような生命の性質を指す。「ただ」の化合物はエントロピー増大の法則にしたがうが、「生命としての」化合物は自己の周りに殻を作り内と外という意味的な秩序を形成する。意味的というのは、物理的としてしまうと生命として機能するに必要な物質と不必要な物質の内と外の交換ができないため、そういう抽象的な概念が必要だからである。
「生きた」状態というのにも定義が必要である。人は生物が生きているかどうか調べるとき、動物なら動いているか否か、哺乳類なら温かいか否か、植物なら枯れていないかもしくは根が腐っていないか、などを見るだろう。これらに共通しているのは生きている生物というのはその生物自身の意思で化学的活動を行っていることである。生きていれば本能に従って死なないように食物を探したり、天敵から逃げたり、水を吸い上げたり、移動したりする。もし腐っていたり他の動物に食べられていたりしていたとしたら、それは他の生物の意思によって支配されている、つまり死んでいることになる。だから人間が生命を作るというようなときも、その機能を持ったハードを作り出すだけでなくそれが化学的物理的に動作しなければならない。
生命とは秩序、つまりルールである。一律の義務を負った化合物が己の義務を果たすべく存在し活動する「生き物」である。人間はその物理的で道具的な秩序を作ることができるのだろうか。