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とりあえずでかぶろに書いた以前の記事を書くことにした。以下はイザというときのためのバックアップ

 

「18歳の時点でのインセンスに関する私的解釈まとめ」

 前作のゴーストインザシェルではコンピューターウイルスが生命と同じ要素を持つということと、それと同様に生命も自己保存のためのプログラムでしかない、ということがテーマでした。レインで言われていた「生命とはアプリケーションである」というのと同じです。イノセンスはどういう内容なのかというと、生物と非生物の区別に関するものでした。

 「人間機械論」というものをご存じかな。過去にラ・メトリが唱えた理論で名前の通り、生命活動は意識的・無意識的、生きるためのもの・そうでないもの、問わず全ては機械的で、つまりは人間とは有機的なロボットである、というような内容のものです。それより以前に、デカルトはそれと似たような理論を発表しています。宇宙論や人間論、そして方法序説に書かれているその内容はラ・メトリのとはまた違ったものとなっています。デカルトは、人間を体と心の2つの部分に分けて考えることにしたのです。

 体が存在するのは言うまでもないですが、心というのはデカルトの「我思う、故に我あり」という前提に表示されています。ちなみに我思う~というのは、私が考えているから私がある、というのではなく「何はともあれ疑っている自分は必ず存在する」ということです。疑っている自分の存在は否定できない、と考えたわけですね。この前提は実は自分にしか適用できないため(疑ってる他人の存在に確証は得られない)ある欠点を生み出すわけですが、それはまた別の話。で、デカルトの論理とは、体は確かに機械なんだけどそれに宿る人間の心は機械じゃない。言い換えれば生存機械に自我が芽生えた存在が人間である、と言ったわけです。



 率直に言えばラ・メトリの方が正解に近いんだよね。でもそれと逆を行くのがデカルト哲学。



 脳みそってのは神経細胞っていうちっちゃいコンピューターが作り上げた膨大なネットワーク・の世界なのです。その世界の中で動くアプリケーションがDNAや記憶なわけです。その存在意義はDNAを後世に残すことに他ならない。そのために人間はDNAに飯を喰わされて、眠らされて、セックスをさせられるというわけです。わかりやすいよね。この辺は反論の余地が無いのですが、つまり意識が脳を動かしているわけではないのです。


 デカルトの言う通り自分という疑問を持っている存在にだけは確証が持てるはずです。というよりはその仮定があってのデカルト哲学なのですが…。んで、ここから少し面白くなるんだけど、自分のことはともかく、他人はどうなのか。



 ぶっちゃけ言えば他人に自我があるのも無いのも自分の判断しだい。 むしろ「それ」が人であるかどうかさえ決めるのも自分なんです。なぜなら、自分は他人じゃないから、他人が本当に疑問を持つという自我の性質を持ちうるかはわからんのです。そこで普通の人は<人と呼べるかどうかさえ分からないその物体>を「人に見えるかどうか」で判断しているわけです。げんしけんでも出てましたが、人は記号や特定の要素で人と判断しますからチューリングの名前を出すまでもなく、本当に他人に自我があるか、それは自分の判断で決まるわけです。だから「他人には自我がある」というのと「人形には(それ以外の無機的な機械などにも)自我がある」という理論は同義なのです。

 単なるキチガイ理論かと思いきや、この理屈においてはコンピューターウイルス的生命に関して中々面白いことになります。まぁこの辺はけっこう進んでて「今更」なネタなんだけどね。というよりチューリングテスト云々やってる時点ですでに生命に関する古典的な概念はとっくの昔に消し飛んでいます。AIが生命なのかそうではないのかなんて議論はもう不要なんです。

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