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カウント数がちょっと増えてきて内心フヒヒとか思ってたところが、それでアニメ批評やら特定作品マンセーしててもしょうがないので、デカルト的なことをやっておこうと思った。
じゃあテンション上げて行ってみようか。
前作のゴーストインザシェルではウイルスが生命と同じ要素を持つということと、それと同様に生命も自己保存のためのプログラムでしかない、ということがテーマでした。レインで言われていた「生命はただのアプリケーションに過ぎない」というのと同じです。
イノセンスはどういう内容なのかというと、生物と非生物の区別に関するものでした。
「人間機械論」というものをご存じかな。過去にラ・メトリが唱えた理論で名前の通り、生命活動は意識的・無意識的、生きるためのもの・そうでないもの、問わず全ては機械的で、つまりは人間とは有機的なロボットである、というような内容のものです。
それより以前に、デカルトはそれと似たような理論を発表しています。宇宙論や人間論、そして方法序説に書かれているその内容はラ・メトリのとはまた違ったものとなっています。
デカルトは、人間を体と心の2つの部分に分けて考えることにしたのです。
体が存在するのは言うまでもないですが、心というのはデカルトの「我思う、故に我あり」という前提に表示されています。ちなみに我思う~というのは、私が考えているから私がある、というのではなく「何はともあれ疑っている自分は必ず存在する」ということです。疑っている自分の存在は否定できない、と考えたわけですね。この前提は実は自分にしか適用できないため(疑ってる他人の存在に確証は得られない)ある欠点を生み出すわけですが、それはまた別の話。
で、デカルトの論理とは、体は確かに機械なんだけどそれに宿る人間の心は機械じゃない。言い換えれば機械に自我が芽生えた存在が人間である、と言ったわけです。
ラ・メトリの論理もデカルトの論理もどちらも捨てがたい面白い内容です。ではどちらが正しいのか。ちなみにここから私の主観の理論になります。
まぁでもラ・メトリの方が正解に近いんだよね。デカルトも間違ってはいないんだけど、自我を確認できるのは自分だけであって自己満理論と言っても過言じゃない、と思う。つまり定義する意味がない。どちらの理論も脳みそは機械なのだから。
ところで一般的に人間には意識があると言うけど、意識が脳を動かしてるのか脳が意識を支配してるのか、どちらだと思いますかね。
大脳生理学の基本なんですが、脳は神経細胞の間を樹状突起とシナプスを介して電気信号がやりとりすることで入力(感覚器からの情報)と出力(筋肉・ホルモン分泌などへの命令他)をこなしています。ちなみにこのときの演算能力は現代のスパコン程度なら宇宙的に上回る性能を持っているので、電脳化の1つの問題点がそこにあるわけです。
ま、つまり脳みそってのは神経細胞っていうちっちゃいコンピューターが作り上げた膨大なネットワーク・ワイヤードの世界なのです。
その世界の中で動くアプリケーションがDNAなわけです。その存在意義は、DNAを後世に残すことで、そのために人間はDNAに飯を喰わされて、眠らされて、セックスをさせられるというわけです。わかりやすいよね。
まぁここまで来ると反論の余地が無いのですが、意識が脳を動かしているわけではないのです。
人はソフトウェアにまかされているだけ。
ただここで1つ疑問になるのが、音楽や絵画などの芸術の世界です。芸術などの「遊び」は人間しか持っていない、それに娯楽は生きることに直接関与しないため、それが意識の存在の根拠になるのではないか、という理屈です。
俺はこの点に関してはわからん。しかし、人間しかやらないとは言っても人間が娯楽という文化は生活に物理的・心理的余裕が出来るほどの文明を持ったことで可能になったため、人間しか出来なくて無理もないモノなわけです。ただ「そういう文化を持つに至った直接的理由」がわからんため、問題なのです。これはホントにまだわからん。研究中。
ただ「皆と同じ事をすること」に快楽を感じるように人間が出来上がっているとしたら、つまり共感を持つことに楽しさを覚えるようにDNAにプログラミングされていたら、音楽の楽しさはそれが根拠になります。絵画や詩や文学に関しても、何かについて論理的に考察すること、脳を使うことに楽しさを覚えるように出来ているならば、意識だのなんだの言う余地は無いです。確証は無いけどね…。
長いですね。もう少し続きます。が、書いてる方も疲れたのでまた続編で。