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空気
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六月二日 市ヶ谷

言葉による断食は遂行されている。

文脈を理解しないもの──「外国人」として大学生活を送ることにしている。

既存の会話は常に文脈を疑う必要がある。それはほとんど中央集権的な言語体系だからだ。

言語とくに会話に不具を感じる。
身体から離れた異物としてしか意識できない。
まったく我々は身体なんかに閉じ込められてはいない、身体はほとんど無限だ、
我々が閉じ込めているのは客観だとか精神だとかのフレームに他ならない。

 

 

 


いきさつ
五月三十日 神保町

曇のち雨


荒川修作の講演会に行った。

荒川修作はオートポイエーシス研究で知られる河本英夫や、J=J・ルセルクルだとか宮崎駿だとかも絶賛している建築家である。


メモより


我々の「世界」は道具を使うための道具であふれている。身体から遠ざかるだけだ。
なぜ町の真ん中を人間が歩かず、車が走るのだろうか!

すべてにイメージはある。我々は身体の1%もしらない。
ノーベル賞受賞者はくそだ。顕微鏡を30年間ものぞき続けなければとることはできないし、
受賞したところで我々の身体の0.1%ほどを知ったにすぎない。

~~~~~~~~~~~~~~


技術の進歩はわれわれの身体を意識しないところからくる。
我々は身体で間に合っているということをしらない何故なら「我々は身体の1%もしらないのだ」と言いたいのかもしれない。

人類の崇高なる目的は進歩だというのは、技術の発展などではないということだろう。
すべて間違ってきたと、パリ諸大学の名誉教授たちと教会や大学を破壊しようとしている芸術家荒川はいう。

議論はメルロポンティにダメ出しをし、既存の体系はほとんど内在化をおこなってしまい元凶はデカルトであるという批判もした。
これは従来のデカルトの批判と同じではないだろう。おそらく客観を据えたこと自体への批判である。
同様の理由でプロテスタントや近代科学までに批判はおよぶ。
では現象学のように独我論的主観の運動として主体を置く立場へはどうアプローチするのだろうか。
身体への回帰といったら、メルロポンティをすぐに思いつくのだが、荒川はそれもだめだという。


建築学的生命を考えたとき、ハイデガーのいうような道具関連はどう位置付けられるのだろう。
おそらく道具→人間、文脈→人間という見方は方向を変えるはずだ。
それはおそらく「一体」となるからだ。

『「私」と呼ばれている「私」のかかわりにおいて現実は存在する。』と荒川はいう。
ランボーの公式に従えば「我は他者なり」
そういえばランボーの詩というのも五感的だ。

キルケゴールは、シェリングの講義で「実存」ということばを聞いた時、内なる思想が沸き立つのを感じたと書いているが、
荒川の講演を聞いた僕の場合は途方もない混乱だけだった。

そのため僕は荒川修作の本を二冊買ってしまった。興味のある人は僕に話しかけてほしい。難しい本だ。
しかしオートポイエーシスと情報学で行き詰っていた僕に新たな提示を与えている。
ちなみに、サインももらった。

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