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不満の冬がすぎた!いや、こういうべきだろうか
「病身の春が、悲しげに冬を追い払った。澄み切った芸術の季節、明晰な冬を」
疚しさへの負い目もなく、春を愛でる、偽善の友!兄弟よ!
きょうは、あいにく君たちに振る舞えるオペラは、持ち合わせていない。
喜劇がお望みなら、リチャード三世でも読んでいたまえ。
カトー君、高尚なる暇というものをもっているだろうか?
なんたって学(scholar)の語源は余暇(skhole)なのだからね!
カトー君、制度的実験室の一部分として、交通が遮断されていやしないか心配だ。
俺の仮説では、精神や知性の純粋培養というものはありえない。精神の語源はプラマテ、すなわち呼吸だ。精神はその諸元から外部との交通を意味するものだった。知性は精神によって流動をあたえられなければならない。
悦ばしき知!これをプロバンス地方ではゲイ・サイエンスという!
ヘテロ―ホモという封建的に閉じられた回路を、横切ることのできる自在さが、
カトー氏にあったではないか!
そしてまた、ゲイ文化を花開かせた、かのギリシア的な精神とは、
手を動かさず、全部頭の中でやってしまおうという傲慢さ、知的なフュブリス、
もはや既存の神などには従わぬ、みずからの創造の神性にたいする限りない誇りにあるのだ!
というのも、われわれはふたりとも賢い人間なので、どんなことでも際限なしに議論できる。
そして我々は、夜もまたひとつの太陽であることをしっているのだから、
現代人のように、春の太陽で身を清めたり、碧空の嘲りに心やつしたり、
感傷的な追憶や、粗雑な物語をみてながす卑屈な涙で、身の穢れを落とす必要もない!
唯物論的な蓋然性!自然科学という唯一の方法!それがみちびくのは?
人生というものは、ニューロンの無用な興奮の総体にすぎないという結論!
であるなら、この馬鹿げたショーに唾を吐きかけ、声を上げてつぎのようにいうことができる。
わたしの仮説を信じよう!この愛らしい仮説が帰結する、あらゆる死と不幸の責任をとろう!われわれの仮説の創造者であろう!
近いうちに饗宴でもしよう。
科学に関してすこしまとまった考えができた!
是非聞いてもらいたい。連絡待つ