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 何故俺が『Descartes』を思い出話としてさっさと片付けたいのかを簡単に書く。

それは、ソレが黒歴史であるからではない。黒歴史であることは否定しないが、それはそれで問題ない。問題なのはそれに何らかの非現実的な仮定の話を持ち出してしまうことだ。

この話を笑える思い出話として完結させることで、この話を完全に過去のものとして現実から分離することが出来る。分離すること自体が目的ではないが、ある仮定を持ち出すことで、現実の話と過去の話があいまいな境界をはさんで中途半端に溶け込んでしまうことは問題である。

つまるところ過去は過去であるべきで、どんな後悔や反省があったとしても、過去の仮定の話は持ち出すべきではない。それだけである。その過去があったからこの現実が存在する可能性がわずかでも残っている限り、その過去を否定してはならない。それは現実を否定する、現実逃避に他ならないからだ。仮定を持ち出す当人がそのような意図を持っていなかったとしても、その理屈は残念ながら成立してしまう。

だから、結局その黒歴史は「笑える思い出話」として片付けてしまうのが一番誰もが納得できる位置付けなのである。

ただし、「青春の思い出を作るために」というように、それを作る事を目的にしてはならない。思い出というのは何らかの努力や表現行為を共有した、その結果である。それを後から認識するための記憶の一つの形が「思い出」と呼ばれるものなのだ。思い出作りを目的にすると、その『思い出作り』における努力は、本来その努力が向けられるべき対象(例えば何らかの表現行為自体)にではなく、思い出を『作る』ことに向いてしまう。そのような質の低い「思い出」とやらに私は価値を見出せない。
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