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空気
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……とH氏は開口一番どなりつけた。かれの人間離れのした、義眼のような目をむきだして睥睨とともにさかんな拍手が沸き起こったがKにはまるで理解しがたいことだった。H氏は右手を水平にさしだしてそれ以上の喝采を制し、めいめいの食事をつづけてほしいと要望した。といってもこれは食前の形式的な祈りのことば同様に意味の無い外交辞令にすぎなかったのであり、だれ1人ほんとに食べはじめるものはなかったのである。H氏は肩をいからせ、胸を膨らませて続けた。

「諸君、いまこそ雑人の撲滅にとりかかろうではないか。それも従来のように行き当たりばったりの能率の上がらない方法によって、ではない。われわれは個々の兵士や将校、秘密警察官や突撃隊員、親衛隊員などの手による私刑にまかせておくべきではない。私刑! なんと感傷的で姑息な手段だ! わたしはもううんざりしている。さよう、わたしの申したいのはなによりも能率的な雑人根絶だ。そのためには組織立った方法に切り替える事が必要である。無論同時に諸君自身の頭の切り替えも必要だ。わたしはここで雑人範疇を確定しておこう。まず、その名を口にするだけでも憎悪で鳥肌だつあのヘルニヤ人についてはいまさら申すにもおよぶまい。かれらこそ雑人の純粋種でありその元兇である。われわれは顔をにらみつけるだけでヘルニヤ人を識別する事ができるほどだ。それは数千年来、われわれの正当な世界から指名手配をうけてつねに監視されてきた顔なのだ。だからそれは積荷おびえる犯罪人の顔だ。かれらの背負っている罪はあまりにも自明で大きすぎる。要するにかれらにあってはその存在そのものが犯罪にほかならない。かかる雑人の顔というものは、長い鼻、開墾の涙で腐った眼、それに薄い真実味の無い口と悪意に尖った耳をもつのがおきまりである。すでに乳幼児にしてこの本質的特徴のこしゃくな発言がみられると申せよう。それはわれわれの憎悪をかきたてずにはおかない。だが、ヘルニヤ人のごとき雑人を想像したのはわれわれ自身なのである。かれらはわれわれが生み出したわれわれ自身の他者である。この他者を抹殺すべきときが今や来ている。いや、人間はその機械をいつもその手中に握っていたのだ。かけていたのはあとわずかの有機と確信であった。周知のごとく、神は人間を創った。しかしその人間は神にとってt者となったという理由で罪深い存在なのだ。だから神は人間を殺す。この原理はつねに代わりはしない。それは我々自身の原理でもあるのだ。わたしは神である。そうだとしても、わたしにとっては他者すなわち人間は必要ではないのだ。諸君がいまもってなんとなく未練を感じているらしい宗教というものから女・子供向きのオブラートを剥ぎ取ってみるとわかるだろうが、最初から神は人間なしに存在していた。かれが人間を想像したのは単なる錯誤かきまぐれに過ぎなかったのである。ところで神はこのときひとつの悦楽を発見した。つまり人間に自由という厄介なものを与えたあげく、この自由をいけにえとしてさしだすように命じるということである。そもそも人間が自由というような厄介な代物をいつまでももちつづけるはずがないではないか。かれらはかならずそれを供出する。開戦と同時に国民がこぞって貴金属類を供出したのと同じことだ。かれらは自由を神に奉納してしまったほうがご利益が大きいだろうと考える。思う壺だ! 神は着々と自由を回収する。そうなると人間とはなんであるか? それは神の交付する掟に甘んじて鞭うたれる家畜の群れにすぎない。あとはそいつらを食い殺すだけなのだ。最後の瞬間まで人間は欺されたとも知らずに神がかっとあけてひろげているおそろしげな口の中に行進していくだろう。そうではないか、諸君」

H氏はそこで一段と眼をむきだした。すると交換たちはひどく哀しげな――とKには思われた――喚声をあげ、いっせいに右腕を右上方につきだす例の敬礼によってH氏に敬意と称賛の意をあらわすのだった。だがH氏は暗にみずからそれを要求したにもかかわらず、部下たちの忠実な反応にますます不機嫌になり、眉のあいだのしわを深めながらこのうえなく侮蔑的な調子でつづけた。

「……あらゆる人間の運命は以上につきるだろう。諸君の場合も同断である。神は食人をその属性としているのである。少なくとも人間が残っている限り、神の愉しみは人間を貪り食うことだと申せよう。人間がいなくなったときにはどうする?――そんなことを心配するのは取り越し苦労というものだ。人間を創るまえから神は人間なしでちゃんとやってきたし、人間を喰いつくしたあとも、いくぶん退屈はするにしても悠々とやっていくだろう。神が人間を必要とするなどとぬかすのは坊主の宣伝にすぎない。神とは本来人間なしの神なのだ。愛とか憐憫とか慈悲とかいった迷信も一切、坊主どものふりまいたものである。神がそんなものをもちあわせているはずがないではないか。神は人間を殺戮して世界を整頓し、自分だけで居心地良く住む事を望むのだ。意やそんなものは神ではない、人間のない神とは形容矛盾だと反論する衒学の徒がいるかもしれない。いっておくが、その種の役にも立たないことを考えたがる知識人は容赦なく撲殺すべきだ。神で悪ければ怪物とでも魔神とでも呼ぶがよかろう。悪魔と名づけてもよい。似非非合理主義者ならそれを超人と規定するだろう。だが問題はそんなことばの穿鑿にあるのではない。すでに賢明な諸君はお察しのことと思うが、以上のような神による人間絶滅の理論はそのまま目下の状況ではわれわれクルト民族による雑人撲滅作業に対して指導理念となるのである。わたしは本日、高邁な学者であり大学教授であるK氏をお招きした機会に、従来ややもすれば明確な思想の裏づけなしに行われてきた雑人撲滅運動の確信まで立入って、この運動に哲学上の支柱を与えたいと思ったのである。」


ほんとはこの先にもずっと続くんだけど、疲れたからここまでにしよう。

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