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まぁソレはソレとしていいとして、とりあえず暇が出来たので秋葉原に行ってケーブル類各種をゴッソリ仕入れてきて、今日の5の2とあと魔の池袋ジュンク堂地下にもなかったみなみけ5巻を買ってきた。もうちょいなんか買えるけどカシオレーターが欲しいからちょっち金貯めるか。
しかしスパークリングワインというのは旨くも不味くもない。こういうのが一番処理に困るんだなぁ
あと最近気づいたんだけどみなみけは茄子という漫画と非常に似てる部分があると思います。
コマ割りとか台詞まわしとか。多分わかる人は凄いわかると思うけどわからない人は全然だと思う。
そういえば最近ユーノ君が可愛くてしょうがなかったんだけど、諸々の事情によりストライカーズは8話だけ見て、 次なにかショタアニメでも探すことにした。ショタ絵描けるように練習するかなぁ…てか俺の人生において音楽関連につぎ込んだ時間を全て絵画にまわしていれば恐ろしいことになっていたんだろうなと思う。まぁそういうのは全てあてはまるか。
今日ドストエフスキーの死の家の記録読み終わったんだけど、ここまで高尚な自己満足小説は始めてだ。素晴らしいではないか文学ではないか。
ああ!なんという事だ!
諸々のブログを辿りそしてググって知ったんだけど、明日民音のライブがあるらしい
しかも朝から!
んで俺は1~2限と休めない授業があるのだ。2限が終わるのが12時40分で小金井キャンパスから市ヶ谷まで移動するのに軽く1時間はかかって行けるとしても1時半~40分前後になってしまうのだ!
ああ!畜生ファックまじクワマンのケツ穴野郎
Kuwaman's Ass
じゃなくてFuckedか…?
と、いうわけなんだけど実は今携帯を紛失していて連絡がとれない。
仮に1時40分に到着出来るとして誰のバンドが見れるのか何が見れないのか情報が欲しい…気が向いた人いれば教えてくれ
http://www.filebank.co.jp/wblink/e7cd89872bc68d2924e2fff7f1ccbf70
ここで落としてください。ファイルバンクに感謝するがよい。
ああ、忙しくて作業が出来ないな
ねらーのみんななら結構知ってる人多いと思う。
http://jp.youtube.com/watch?v=WS7lnXLzQiY&eurl=http://alfalfa.livedoor.biz/archives/51282497.html
アカシャのなんとかっていう歌らしい。ああすばらしいな
ちなみに中絶のことを言ってる歌らしいよ。
中絶はねぇ~別に倫理がどうのこうのってわけじゃないけど、どうせおろすんならサンプルとして使えるようにしたい。おろすってことはその肉の塊は人間ではないわけで、人体実験にもならないわけで…といきたいところだけど生きたまま引き摺りだすのが出来ないんだなぁ…惜しい。パックリ腹開いて取り出せればいいんだけど。
まぁなんにしても中絶は保険効かないから金かかるし、完全な避妊方法は今の所無いし、性病も蔓延するし、合理的に言えばセックスは娯楽として成り立たないんだわ。娯楽で合理がどうのってナンセンスな気もするけど、オナニーと脳内で起こってる現象は同じなのに、オナニーよりも莫大な金銭がかかってしまって大変だ。
ああ…それにしてもショタコンの皆様にしかわからない話題だけどブルースフィアのレオンは許せるんだがストライカーズのユーノ君はダメだ…。にしても1期と2期のユーノ君は本当にレベル高い。
くくっ…狂気の沙汰ほど面白い…!
いやー魔法魔法してるアニメだから俺的にはアレなんだけど、こいつは面白いテーマだ。
今11話見てるところだね。
子供向けアニメは云々って昔から言ってるかもしれんけどやはりイイね。
ぶっちゃけGhost in the Shellと言ってることは同じだ。
いやGhost in the Shellはもう一歩先の事を言っているんだけど、次元は同じ…というわけなのかな。
あー、やはり一般的な自意識ってのは、「生きてるに違いない」っていう先入観によるものなんじゃないか…?なんだか微妙だけど直感的なものなのだろうと思う。んー子供向けだからそういう描き方なのかわからんけど
あーあんまり関係ないけどアニマルズっていう日本のバンドなんだけどそのアルバムのデータが発掘された。
えーとこいつだ
http://www.nicovideo.jp/watch/sm103195
うんやっぱこのバンドいいよね。ちょいマニアックかもしれんけど。
パンクと管楽器ってのは意外とマッチする。
アカギやってたのは高校のころだったっけ?
アニメの方も牌の彫りをCGで表現してたりとクオリティ高くて衝撃的だったな。
アルバムに入ってるフルのやつよりもEDカットの方がかっこよくて困る。
にしてもグリッサンドでPANを→←→みたいに振る加工やりたかったなぁ
てか矢印で表すと格ゲーのまとめサイトみたいだ。
うーんしかしこのミックスは音圧が薄い気がするなぁ…管楽器を入れる余裕作らないといけないけど管楽器は耳につく音色だからあんまり音圧稼げない、つまり結局全体の音圧は必然的に低くなる、とかそんな感じなのかもしれない。
小一時間くらい悶々としてしまったので、とある有名なMADを見たのもあって、何故かリリカルなのはA'sを見直している。ユーノくんが可愛い。てかなのはとスクライドと遊戯王がこれほどマッチするとは思わなんだ。
ああ、なるほど。wikipediaで調べたらオートポイエーシスという考え方はもともと生物学が由来らしい。
ああ、わかりやすいな…。
しかし人間のなんだか変だと思われてるところは、『定義』という全く関係の無い記号同士を結びつける、つまり自然界においては全く非合理な関係性を作り上げてしまうというエゴイズム的なところにあると思う。まぁ人間にとっては言語は非常に合理的なわけだけど、その代わり「認識の木の実を貪った者」となってしまうのか。
言語に限界があるのか?数学に限界があるのか?
あーでもやっぱよくわからんなオートポイエーシス。
哲学ってのは本当に理解の邪魔をする。科学が面白ければそれでよい。
六月二日 市ヶ谷
言葉による断食は遂行されている。
文脈を理解しないもの──「外国人」として大学生活を送ることにしている。
既存の会話は常に文脈を疑う必要がある。それはほとんど中央集権的な言語体系だからだ。
言語とくに会話に不具を感じる。
身体から離れた異物としてしか意識できない。
まったく我々は身体なんかに閉じ込められてはいない、身体はほとんど無限だ、
我々が閉じ込めているのは客観だとか精神だとかのフレームに他ならない。
いきさつ
五月三十日 神保町
曇のち雨
荒川修作の講演会に行った。
荒川修作はオートポイエーシス研究で知られる河本英夫や、J=J・ルセルクルだとか宮崎駿だとかも絶賛している建築家である。
メモより
我々の「世界」は道具を使うための道具であふれている。身体から遠ざかるだけだ。
なぜ町の真ん中を人間が歩かず、車が走るのだろうか!
すべてにイメージはある。我々は身体の1%もしらない。
ノーベル賞受賞者はくそだ。顕微鏡を30年間ものぞき続けなければとることはできないし、
受賞したところで我々の身体の0.1%ほどを知ったにすぎない。
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技術の進歩はわれわれの身体を意識しないところからくる。
我々は身体で間に合っているということをしらない何故なら「我々は身体の1%もしらないのだ」と言いたいのかもしれない。
人類の崇高なる目的は進歩だというのは、技術の発展などではないということだろう。
すべて間違ってきたと、パリ諸大学の名誉教授たちと教会や大学を破壊しようとしている芸術家荒川はいう。
議論はメルロポンティにダメ出しをし、既存の体系はほとんど内在化をおこなってしまい元凶はデカルトであるという批判もした。
これは従来のデカルトの批判と同じではないだろう。おそらく客観を据えたこと自体への批判である。
同様の理由でプロテスタントや近代科学までに批判はおよぶ。
では現象学のように独我論的主観の運動として主体を置く立場へはどうアプローチするのだろうか。
身体への回帰といったら、メルロポンティをすぐに思いつくのだが、荒川はそれもだめだという。
建築学的生命を考えたとき、ハイデガーのいうような道具関連はどう位置付けられるのだろう。
おそらく道具→人間、文脈→人間という見方は方向を変えるはずだ。
それはおそらく「一体」となるからだ。
『「私」と呼ばれている「私」のかかわりにおいて現実は存在する。』と荒川はいう。
ランボーの公式に従えば「我は他者なり」
そういえばランボーの詩というのも五感的だ。
キルケゴールは、シェリングの講義で「実存」ということばを聞いた時、内なる思想が沸き立つのを感じたと書いているが、
荒川の講演を聞いた僕の場合は途方もない混乱だけだった。
そのため僕は荒川修作の本を二冊買ってしまった。興味のある人は僕に話しかけてほしい。難しい本だ。
しかしオートポイエーシスと情報学で行き詰っていた僕に新たな提示を与えている。
ちなみに、サインももらった。
例えば中間テストで忙しいだとかベースとギターの修練をしているだとかまたはやる気が出ないとかむしろネタが無いとか、やっぱりクワマンと全然話していないからだとか、そういうわけです。
えーと
生物の特性
細胞小器官(オルガネラ)
アミノ酸・タンパク質
核酸
炭水化物
まぁ浅く広くだな
ドストエフスキーの小説を読まなければならないのである。こやつの文章は面白い。崇高である。
にしてもドストエフスキーって実はラノベなんじゃないか??と思えてきた。
いや何故ラノベ臭いのかと質問された時理論的にそれを証明することは出来ないけど、なんとなく。
まぁ『なんとなく』っていうフィーリングの問題は小説に限らず、芸術では当然でありかつ作品について主軸となる評価基準であろう。それを裏付ける理論的な概念、テクニックのようなものは事実存在してはいるが…。
ちなみに今読んでるのは死の家の記録。
多分表紙をのいじか誰かに書いてもらって登場人物とか看守とか少佐とかアキバ系の限りを尽くせばかなり売れると思う。ラノベにすればあの凄まじい文字の量も1~10巻とかにできて全く問題はないだろ?
てかアキバ系ってなんだか死語っぽいね。
む、ドストエフスキーは元からアングラだから元来アングラであるべきオタク界とは馴染み易いんじゃないか。
最近のあっち方面は無駄にメジャーになってきてるけど。