空気
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
そういえば以前の劇場版で量産型エヴァと2号機が対峙したとき、2号機が露骨にATフィールドを展開する演出があった。ロンギヌスの槍でブスリとやられたけどさ。破で初号機が放った使途っぽいビームとそれを同時に考えると、エヴァ≒使途(≒人)という設定をもっと目立たせたいんだろうな。まぁ当初から使途のATフィールドをエヴァの作り出すATフィールドで中和してぶっころすとかしていたから、元々エヴァはATフィールドを作り出せるってのは当然なんだろうけど。
しかし新ラミエルの残念なところの一つがATフィールドであると俺は思う。なんか何枚も広げやがってそれも2号機にばっさり破られるし、見た目がカッコイイだけにその脆弱さにガッカリ、という印象が大きいのだろう。そりゃなんか円筒形の腕(?)を出してそっからよく分からない変形でトイレットペーパーが出てくるっていうデザイン的に「ダサイ」のもショボくなった原因の一つだろうけど。パラパラ→シュッ→ずばぁ!ってのがいいのに。
てか零号機を捕食するシーンがなんだかバカ殿的というかドリフ的というか、とにかく間が抜けていた。BGMもいっきなり悲観的になるもんだから、なんとなく笑いを誘う絵と恐ろしいまでのギャップを作り出していかんともしがたい空気になっていたと思う。いきなりパックンチョされて笑えないわけがない。ガマンしたけど。
しかし新ラミエルの残念なところの一つがATフィールドであると俺は思う。なんか何枚も広げやがってそれも2号機にばっさり破られるし、見た目がカッコイイだけにその脆弱さにガッカリ、という印象が大きいのだろう。そりゃなんか円筒形の腕(?)を出してそっからよく分からない変形でトイレットペーパーが出てくるっていうデザイン的に「ダサイ」のもショボくなった原因の一つだろうけど。パラパラ→シュッ→ずばぁ!ってのがいいのに。
てか零号機を捕食するシーンがなんだかバカ殿的というかドリフ的というか、とにかく間が抜けていた。BGMもいっきなり悲観的になるもんだから、なんとなく笑いを誘う絵と恐ろしいまでのギャップを作り出していかんともしがたい空気になっていたと思う。いきなりパックンチョされて笑えないわけがない。ガマンしたけど。
PR
無題
おそらくだれもが抱く所感だとおもうんだが、映画を見たあとに浮遊感や異和感は一切残らなかった。後に引く感覚みたいなものが一切なかった。残ったのは「ストーリー」としての謎のみ。まったく濁さない。というのは「こころ」(内面)をストーリー上の意味にすべて還元してしまった。つまり観客には解釈の余地がまったくない。文学でも映画でも表現作品の文学的な価値は「沈黙」をあたえられるかどうかで決定されるのだと俺は思ってる。今回は登場人物の「内面」一切はストーリーの上で把握することができる。そういう意味で内面は内面じゃない。
たとえば式波が夜一人で呟くシーン。「一人じゃ何もできなかった」まるで日曜朝9時くらいのアニメを見ている気分になった。この独り言は全く観客に式波の内面を喚起させない。独り言じゃない。
独り言ってのは、すべてが死に絶えてしまっているのになぜ人間の言語を使っているのか、という認識がなければまったく笑いものにしかならない。最終的には「笑うことができるんだ」もし本当に庵野が「現実世界で生きることの心の強さ」をこのシーンで表現していたのだとしたら、くそくらえと言うべきだろう。内面を捨てることは「外で生きること」「現実世界で生きること」を意味しない。内面を保ったままいかに外に出るかっていうのがあらゆる表現作品のアポリアであるし、それにとりくむのが作者だ。
しかしまぁそうした言語表出のアポリアを一切カットしてエンターテイメントに乗り切ったとみれば、なんていうか話題性と資金がほしかったのだと解釈することもできるし、そうなると時代を洞察してのことだろうから正しい判断だともいえる。こう考えると庵野はエヴァを自分から切り離したかったんだと思うね。つまり庵野は意図的に自らの「パロディ」を試みた。それはまったく綾波で表現されてると思う。テレビ版の静かな雰囲気を、まったくの動的な感情的なものでみごと「破壊」したんじゃないかな。
ギリシアの神々は二度死ぬ。一度めは悲劇として、二度めはルキアーノスによって茶番(farce=喜劇)として。まあいずれにしてもわがままな庵野は健在なんじゃないかな
たとえば式波が夜一人で呟くシーン。「一人じゃ何もできなかった」まるで日曜朝9時くらいのアニメを見ている気分になった。この独り言は全く観客に式波の内面を喚起させない。独り言じゃない。
独り言ってのは、すべてが死に絶えてしまっているのになぜ人間の言語を使っているのか、という認識がなければまったく笑いものにしかならない。最終的には「笑うことができるんだ」もし本当に庵野が「現実世界で生きることの心の強さ」をこのシーンで表現していたのだとしたら、くそくらえと言うべきだろう。内面を捨てることは「外で生きること」「現実世界で生きること」を意味しない。内面を保ったままいかに外に出るかっていうのがあらゆる表現作品のアポリアであるし、それにとりくむのが作者だ。
しかしまぁそうした言語表出のアポリアを一切カットしてエンターテイメントに乗り切ったとみれば、なんていうか話題性と資金がほしかったのだと解釈することもできるし、そうなると時代を洞察してのことだろうから正しい判断だともいえる。こう考えると庵野はエヴァを自分から切り離したかったんだと思うね。つまり庵野は意図的に自らの「パロディ」を試みた。それはまったく綾波で表現されてると思う。テレビ版の静かな雰囲気を、まったくの動的な感情的なものでみごと「破壊」したんじゃないかな。
ギリシアの神々は二度死ぬ。一度めは悲劇として、二度めはルキアーノスによって茶番(farce=喜劇)として。まあいずれにしてもわがままな庵野は健在なんじゃないかな
無題
作品中で疑問が生じたり視聴者の解釈に任される要素が明らかに少ないのは、良くも悪くも(大概は悪い方向で)ライトなエヴァファンが増えたことに起因していると思う。
大衆はわかりやすさを求める。疑問や謎はあまり無い方がすっきりするし、昔ながらのエヴァオタのような人間は少なくとも現代においては少数派であろうからだ。また、ネットの若年化によるアングラサイトの顕在化およびパチンコ等の影響により、エヴァオタそのものが比較的少数化している原因もある。
ただ、それは見る側の都合であって作る側とは違う。しかし、庵野は見る側の都合に合わせて作品を作ったことから、仰るとおり商業主義的な動機で作品を作っているのに過ぎないことは明らかである。彼は表現したいのではなく、表現したがっていそうなアーティストを演じて、金儲けがしたいだけだ。それが悪い事だとは思わないが。
ここで俺はこう考える。庵野が古典的エヴァオタを心底嫌っているのは周知として、EOEの「気持ち悪い」よりもっと陰険な嫌がらせを実行しようとした、もしくはしようとしているのではないか、と思う。オタクの求めるものとにわかの求めるものの差を正確に認識し、一般的な話題性や人気に特化した作品にしようとしているのではないか。まだ2作目なので断言は出来ないが…。
大衆はわかりやすさを求める。疑問や謎はあまり無い方がすっきりするし、昔ながらのエヴァオタのような人間は少なくとも現代においては少数派であろうからだ。また、ネットの若年化によるアングラサイトの顕在化およびパチンコ等の影響により、エヴァオタそのものが比較的少数化している原因もある。
ただ、それは見る側の都合であって作る側とは違う。しかし、庵野は見る側の都合に合わせて作品を作ったことから、仰るとおり商業主義的な動機で作品を作っているのに過ぎないことは明らかである。彼は表現したいのではなく、表現したがっていそうなアーティストを演じて、金儲けがしたいだけだ。それが悪い事だとは思わないが。
ここで俺はこう考える。庵野が古典的エヴァオタを心底嫌っているのは周知として、EOEの「気持ち悪い」よりもっと陰険な嫌がらせを実行しようとした、もしくはしようとしているのではないか、と思う。オタクの求めるものとにわかの求めるものの差を正確に認識し、一般的な話題性や人気に特化した作品にしようとしているのではないか。まだ2作目なので断言は出来ないが…。
最新CM
[12/12 jgdpnnimjd]
[12/12 xhhltfvuqh]
[12/12 zenbhhwzby]
[12/12 leyjzkhxvn]
[12/11 nuwkwrzuth]
ブログ内検索
カウンター