空気
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この世界にはとんでもない量の知識が溢れているらしい。
それを区別してカテゴリーごとに分けたのが学問(~学)と呼ばれるもので、特に認識の学問である哲学というのはそれら全てをカバーしている。
最近学問に共通していると思うようになったことは、皆勉強してみるとそれなりに面白いということだ。
あらゆる学問を支える学問である哲学が、探求という性的快楽に次ぐ至高の喜びを持っているからして、認識や観察から発生する学問が面白くないわけが無いのだ。
ここまではいい。しかしここからが問題になる。
現代において人が持つ知識、つまり巨人の肩の上に立ちそこから見える景色というのはあまりに多すぎる。
これは人が歩んできた歴史の多さと、むしろ単純に人の多さが問題になるのだろう。
我々が勉強することを許される時間というのは非常に短い。そこから考えるとそれらを勉強し全てを身につけるというのは不可能だ。
そうなると、個人は各々で決まった範囲の学を修め、複数の人間の知識を総合して総体として思考や分析をすることになる。
あーなんかイロイロ書く予定だったけど忘れてしまったので省略。
人はパーツなのだなあ
ところでmixiで顔晒してる奴ってどうして同じような顔ばっかりなんだ?特に女。
なんというか、ねぇ
それを区別してカテゴリーごとに分けたのが学問(~学)と呼ばれるもので、特に認識の学問である哲学というのはそれら全てをカバーしている。
最近学問に共通していると思うようになったことは、皆勉強してみるとそれなりに面白いということだ。
あらゆる学問を支える学問である哲学が、探求という性的快楽に次ぐ至高の喜びを持っているからして、認識や観察から発生する学問が面白くないわけが無いのだ。
ここまではいい。しかしここからが問題になる。
現代において人が持つ知識、つまり巨人の肩の上に立ちそこから見える景色というのはあまりに多すぎる。
これは人が歩んできた歴史の多さと、むしろ単純に人の多さが問題になるのだろう。
我々が勉強することを許される時間というのは非常に短い。そこから考えるとそれらを勉強し全てを身につけるというのは不可能だ。
そうなると、個人は各々で決まった範囲の学を修め、複数の人間の知識を総合して総体として思考や分析をすることになる。
あーなんかイロイロ書く予定だったけど忘れてしまったので省略。
人はパーツなのだなあ
ところでmixiで顔晒してる奴ってどうして同じような顔ばっかりなんだ?特に女。
なんというか、ねぇ
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無題
膨大な情報を前にしたとき、それらの共通項を抜き出すやり方が古来より「哲学」などと呼ばれていた物かもしれない。その認識の上でもっとも合理的とされるものが「パラダイム」を形成し、時代の「学問」を形成していく。
そこでいったん捨象される「意味」や「価値」は、一貫された「哲学」やパラダイムの上で「思想」となって現れる。その典型的な例がマルクス主義やナチズムだった。この認識の上に立てばもちろん科学や資本主義もひとつの「思想」と言い表すことができる。
そして個々に残されているのはパラダイムにより表象された「時代」や「社会」が与えてくれる「意味」に家畜のようにすがるのか、反抗するか・・などという価値判断だろうか。マルクス主義の頓挫の音に現れた、「資本主義」思想のあたえる「意味」。それがどのようなものであるかはインターネット各種掲示板に描かれるとおりである。
ポール・ヴァレリーはこういう
「わたしははじめからよくわかっていなかったのだ、このうえなく高遠とされる問題でさえ、実はそれほど緊急重大ではなくそうした問題の威信や魅力の大部分がある若干の約束事から借りてきたもので、哲学者の仲間入りをするためにはそうした約束事を覚え、受け入れねばならぬということが。」
内的な探究においては約束事ほどいんちきなものはないが、外的ないわゆる「厳密」な学はそうも行かない。合理性が求められる。
ここで問題となるのは「意味」や「価値」の領域に参入できない合理的思想と、内的なものの総体(共時体系)となって表象される「文化」というものが妥協合戦が繰り広げていくことかもしれない。
そのどちらに対しても有効な指針をあたえるのは歴史的に見て「神」しかいなかったのも事実だ。
そこでいったん捨象される「意味」や「価値」は、一貫された「哲学」やパラダイムの上で「思想」となって現れる。その典型的な例がマルクス主義やナチズムだった。この認識の上に立てばもちろん科学や資本主義もひとつの「思想」と言い表すことができる。
そして個々に残されているのはパラダイムにより表象された「時代」や「社会」が与えてくれる「意味」に家畜のようにすがるのか、反抗するか・・などという価値判断だろうか。マルクス主義の頓挫の音に現れた、「資本主義」思想のあたえる「意味」。それがどのようなものであるかはインターネット各種掲示板に描かれるとおりである。
ポール・ヴァレリーはこういう
「わたしははじめからよくわかっていなかったのだ、このうえなく高遠とされる問題でさえ、実はそれほど緊急重大ではなくそうした問題の威信や魅力の大部分がある若干の約束事から借りてきたもので、哲学者の仲間入りをするためにはそうした約束事を覚え、受け入れねばならぬということが。」
内的な探究においては約束事ほどいんちきなものはないが、外的ないわゆる「厳密」な学はそうも行かない。合理性が求められる。
ここで問題となるのは「意味」や「価値」の領域に参入できない合理的思想と、内的なものの総体(共時体系)となって表象される「文化」というものが妥協合戦が繰り広げていくことかもしれない。
そのどちらに対しても有効な指針をあたえるのは歴史的に見て「神」しかいなかったのも事実だ。
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