空気
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
岩崎参上
どこから書き込んでるかって?どこでもない場所さ!
漂白された時間、
部屋──我々の部屋こそが世界の果てであり、壁はそれを限定する地平線に過ぎない。
*
幼児のにおい、
それは唾液と惨殺の、
真新しく取り出された臓物の
におい
*
フフフ、今日でしばらくブログとはお別れすることになるだろうから書きまくってやるぜ!
俺は共同体幻想という羊水につかり過ぎていたのだ。卵巣に運ばれ続ける。子宮はゲロを吐く。
そう窓は閉ざされた、しかしそれは羊水に汚染された私を救済する為にヒンドゥー教の破壊神(同時に創造神)シヴァが光臨なされたに違いない!
イエス、シヴァはダイアモンドダストでHDDをことごとく破壊した。
そして創造した!人工楽園を!極地二つのポールの統一を、外部と内部の同質性の発見を、時給1800円の職も!
*
朝五時の散歩
私のうちに目覚めた自然はそのまま世界となり、私を解放する。
圧倒的公理を私の前に掲げる!
ポチはよく吠える、吠える犬は弱虫だ、ポチは弱虫だ
イエスしかしてノー
ポチ=犬とは書いていない故にこれは証明ではない。
*
「探求Ⅰ」をよんで
スピノザが指摘するように、デカルトの神の証明も証明ではない。
デカルト──「われここに在り」を掲げ砂漠に立った男!
彼を主観─客観を切り離した元凶とみるのは間違っている!
同様に、内省的な自我という誤読に立脚したデカルト主義
他我の証明不可能性から自我の優越性を唱えること
我々はそのような独我論から抜け出る必要がありゅ。
「疑う」と「思う」はべつのことなのである。「思う」ことが共同体に従属しているだけなのではないかとデカルトは「疑」ったのだ!つまり疑う主体は共同体の外部にあろうとする意志としてのみある。それがデカルトのいう精神。デカルトがオランダに亡命を考えていたということは、でかるとはひとつのどこでもない場所に、共同体と共同体の間にX軸とY軸を掲げることを考えていたというなのだ!
つまり彼が存在を求めた神とは、共同体の外部にただある何かなのでありゅ!
そしてそれこそが本来的な、独我論的でない他者なのではないか!
*
大切なのは、人を空腹から守ってくれたためしのない文化を擁護することより、
文化と呼ばれるものの中から、空腹と同じように
人を突き動かす力を持つ思想を引き出すことではないか。
───アントナン・アルトー
村上春樹試論(1)
モラルは零落した。秩序は意味を与えない。
おおよそ自覚的な人間、「正しさ」にロマンを抱く人間たちはそのような中で内的なモラル(以下マクシム)を築くことでしか生きられない。無自覚な人間は、彼らを「ライフスタイル」を持つ人間として羨望することが多々あるが実に不毛な考えだ。各々の幻想を現実の相対性の中で検証しない限りにおいては、(自覚していても無自覚であっても)転向においやられる。生活の惰性に敗北すように、無変化も変化である。
しかしてこのように言ったとき、「マクシム」というものと「思想」が同じような響きを持って我々には伝わる。
《すべての思想はすでにprejudiceである》
こう語った村上春樹はこのあとまさにマクシムを「羊」で問い詰め「空転する」物語としてあつかい「世界の終わり」において瓦解させ、「ねじまき鳥」に至りデタッチへの連帯の可能性としての「井戸」の発見へと繋げていく。(この「井戸」は我々にとって安部公房の「壁」の発見以上に希望的でリアルなものとして実感されるのではないか)
我々は村上春樹を、ひとつの時代の精神として受け取ることができる。
彼の批判に使われる無思想性と人間的葛藤劇の希薄さは作者の意図するところなのである。
・・・・・。
つづきを書きたいが時間が来てしまった!私は時間に逮捕されているのだ!執行猶予は終わった!
サークルは音楽系には入らず、文科系・・・絵画とか文学とか・・・・で気だるくすごすかもしれない。図書館難民になる可能性も高い。そんな僕に出会ったら優しく軽蔑と憐憫の眼差しを向けてほしい
ではまた会おう!
どこから書き込んでるかって?どこでもない場所さ!
漂白された時間、
部屋──我々の部屋こそが世界の果てであり、壁はそれを限定する地平線に過ぎない。
*
幼児のにおい、
それは唾液と惨殺の、
真新しく取り出された臓物の
におい
*
フフフ、今日でしばらくブログとはお別れすることになるだろうから書きまくってやるぜ!
俺は共同体幻想という羊水につかり過ぎていたのだ。卵巣に運ばれ続ける。子宮はゲロを吐く。
そう窓は閉ざされた、しかしそれは羊水に汚染された私を救済する為にヒンドゥー教の破壊神(同時に創造神)シヴァが光臨なされたに違いない!
イエス、シヴァはダイアモンドダストでHDDをことごとく破壊した。
そして創造した!人工楽園を!極地二つのポールの統一を、外部と内部の同質性の発見を、時給1800円の職も!
*
朝五時の散歩
私のうちに目覚めた自然はそのまま世界となり、私を解放する。
圧倒的公理を私の前に掲げる!
ポチはよく吠える、吠える犬は弱虫だ、ポチは弱虫だ
イエスしかしてノー
ポチ=犬とは書いていない故にこれは証明ではない。
*
「探求Ⅰ」をよんで
スピノザが指摘するように、デカルトの神の証明も証明ではない。
デカルト──「われここに在り」を掲げ砂漠に立った男!
彼を主観─客観を切り離した元凶とみるのは間違っている!
同様に、内省的な自我という誤読に立脚したデカルト主義
他我の証明不可能性から自我の優越性を唱えること
我々はそのような独我論から抜け出る必要がありゅ。
「疑う」と「思う」はべつのことなのである。「思う」ことが共同体に従属しているだけなのではないかとデカルトは「疑」ったのだ!つまり疑う主体は共同体の外部にあろうとする意志としてのみある。それがデカルトのいう精神。デカルトがオランダに亡命を考えていたということは、でかるとはひとつのどこでもない場所に、共同体と共同体の間にX軸とY軸を掲げることを考えていたというなのだ!
つまり彼が存在を求めた神とは、共同体の外部にただある何かなのでありゅ!
そしてそれこそが本来的な、独我論的でない他者なのではないか!
*
大切なのは、人を空腹から守ってくれたためしのない文化を擁護することより、
文化と呼ばれるものの中から、空腹と同じように
人を突き動かす力を持つ思想を引き出すことではないか。
───アントナン・アルトー
村上春樹試論(1)
モラルは零落した。秩序は意味を与えない。
おおよそ自覚的な人間、「正しさ」にロマンを抱く人間たちはそのような中で内的なモラル(以下マクシム)を築くことでしか生きられない。無自覚な人間は、彼らを「ライフスタイル」を持つ人間として羨望することが多々あるが実に不毛な考えだ。各々の幻想を現実の相対性の中で検証しない限りにおいては、(自覚していても無自覚であっても)転向においやられる。生活の惰性に敗北すように、無変化も変化である。
しかしてこのように言ったとき、「マクシム」というものと「思想」が同じような響きを持って我々には伝わる。
《すべての思想はすでにprejudiceである》
こう語った村上春樹はこのあとまさにマクシムを「羊」で問い詰め「空転する」物語としてあつかい「世界の終わり」において瓦解させ、「ねじまき鳥」に至りデタッチへの連帯の可能性としての「井戸」の発見へと繋げていく。(この「井戸」は我々にとって安部公房の「壁」の発見以上に希望的でリアルなものとして実感されるのではないか)
我々は村上春樹を、ひとつの時代の精神として受け取ることができる。
彼の批判に使われる無思想性と人間的葛藤劇の希薄さは作者の意図するところなのである。
・・・・・。
つづきを書きたいが時間が来てしまった!私は時間に逮捕されているのだ!執行猶予は終わった!
サークルは音楽系には入らず、文科系・・・絵画とか文学とか・・・・で気だるくすごすかもしれない。図書館難民になる可能性も高い。そんな僕に出会ったら優しく軽蔑と憐憫の眼差しを向けてほしい
ではまた会おう!
PR
最新CM
[12/12 jgdpnnimjd]
[12/12 xhhltfvuqh]
[12/12 zenbhhwzby]
[12/12 leyjzkhxvn]
[12/11 nuwkwrzuth]
ブログ内検索
カウンター