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クワマンを分析するにあたって重要そうなワードがまた一つ見つかった。「無難」である。


無難ってのは結構使いやすい概念・考え方で、いわゆる処世術としてもかなりの万能さを持っていると思う。

だからそういう考え方は村社会的な日本で生きているからにはこのブログを見ている人の大半が、それ、もしくはそれに類するものを持っていると思う。「妥協」などと言うものだ。かく言う俺もそうだ。常に理想なんぞ求めてはいられん。疲れる。


んで、まぁそういうのは当然なんだけど、問題になるのは無難とか妥協とかを許さないナニカを持っているかどうか、だと思う。それは大抵の場合は、芸術なり文学なりファッションなりという、趣味の領域だろう。

法政高校音楽部が何故凄いかというと、妥協が無い所…多少陳腐で抽象的になるけど、『真面目かつ一途』ということだ。彼等は実に真面目だった。

俺は常に自分のやり方─つまるところ、より”面白く”すること─を貫き通したかったため、部活を辞めて入りなおしたりまるで科学的に無意味で非建設的な金銭の浪費をしたりした。まぁ後者はこのブログを見ている人達(つまりタチコマも言っていたように「趣味の人」)にも大いにあてはまると思う。


と、ここまでが前置きにあたるわけだけど、クワマンはこういうものが無い、もしくはそれが表に見えない、と思う。

ライブなり普段の生活なりと、高校生活には大いに主張や発表の場というものがあった。


クワマンの問題点…というより欠点はそれを活かし切れなかったという事にある。


確かにクワマンには自我や主張したいものというものがあったのかもしれない…しかし、それが表に出ない、見えない、観測できない、ということは、それが存在しないのと同義なのだ。量子論的だ…。

よって、クワマンは常に無難にかつ妥協して生きているかつ、無難に楽器を弾いている。

常に一般論に隠れたがる様子や、文化祭などのブランクの無い演奏において拍に縛られている様子…それらはこの理論を裏付けている。

仮に「クワマンが望んであのようなジャンルを演奏しているのでは無い」とした場合でも、自主的にバンドを作ったり発表や公開の場を持たなかったことから、上記の理論が間違っている可能性は非常に小さいと考えるしかない。

更に仮定としてクワマンが匿名の活動をこの世のどこか(つまりストリートやワイヤードなど)で行っていたという場合でも、それはクワマンの活動とは言えない。それは匿名特有の「ただの誰か」の主張であって、クワマンという一個人の主張とは言えない。


よって、クワマンは音楽部にあるまじき人間であった、という理論に至る。






…と、思う。

どうかな岩崎
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