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不満の冬がすぎた!いや、こういうべきだろうか
「病身の春が、悲しげに冬を追い払った。澄み切った芸術の季節、明晰な冬を」
疚しさへの負い目もなく、春を愛でる、偽善の友!兄弟よ!
きょうは、あいにく君たちに振る舞えるオペラは、持ち合わせていない。
喜劇がお望みなら、リチャード三世でも読んでいたまえ。
カトー君、高尚なる暇というものをもっているだろうか?
なんたって学(scholar)の語源は余暇(skhole)なのだからね!
カトー君、制度的実験室の一部分として、交通が遮断されていやしないか心配だ。
俺の仮説では、精神や知性の純粋培養というものはありえない。精神の語源はプラマテ、すなわち呼吸だ。精神はその諸元から外部との交通を意味するものだった。知性は精神によって流動をあたえられなければならない。
悦ばしき知!これをプロバンス地方ではゲイ・サイエンスという!
ヘテロ―ホモという封建的に閉じられた回路を、横切ることのできる自在さが、
カトー氏にあったではないか!
そしてまた、ゲイ文化を花開かせた、かのギリシア的な精神とは、
手を動かさず、全部頭の中でやってしまおうという傲慢さ、知的なフュブリス、
もはや既存の神などには従わぬ、みずからの創造の神性にたいする限りない誇りにあるのだ!
というのも、われわれはふたりとも賢い人間なので、どんなことでも際限なしに議論できる。
そして我々は、夜もまたひとつの太陽であることをしっているのだから、
現代人のように、春の太陽で身を清めたり、碧空の嘲りに心やつしたり、
感傷的な追憶や、粗雑な物語をみてながす卑屈な涙で、身の穢れを落とす必要もない!
唯物論的な蓋然性!自然科学という唯一の方法!それがみちびくのは?
人生というものは、ニューロンの無用な興奮の総体にすぎないという結論!
であるなら、この馬鹿げたショーに唾を吐きかけ、声を上げてつぎのようにいうことができる。
わたしの仮説を信じよう!この愛らしい仮説が帰結する、あらゆる死と不幸の責任をとろう!われわれの仮説の創造者であろう!
近いうちに饗宴でもしよう。
科学に関してすこしまとまった考えができた!
是非聞いてもらいたい。連絡待つ
細かい事は抜きに、ハンターハンターのテーマがなんとなくわかった気がする。
それは勝負とは何か、強弱とは何か、だ。
単純な力の強さでは勝負は決まらない。では単純な力の強さに意味はないのか?駆け引きで全てが決まってしまうのか?
簡単に言えば、事はそう難しくはない。ぶっちゃけ勝敗というのは全力で腕を競い合ったその後の結果論に過ぎないのである。ただし結果が全てだが。
だから、ネテロ会長は道場で挑戦者相手に試合をする事は勝負でもなんでもないことに気づいていて、しかもそれが気に喰わなかったらしい、ということになる。
その点、主人公の一人キルアの理論はかなり現実的だ。勝てるか勝てないかわからない相手と戦う時、とりあえず勝算を計る。必ず勝てるか、少なくとも分のいい賭けであると判断した場合は戦い、そうでない場合は戦わない。これも一つの手だ。最低限負けなければいいのだから。
こんな記事書くのは珍しいけど、対戦ゲームをやると色々こういうこと考えるようになるもんなんだよね。ちなみに俺はネテロよりはキルア寄り。勝てそうな奴とは戦うけど、敗色濃い相手とは自分に有利な状況がある一定量揃うまで本気でやりあわない。多数対多数のゲームならではだな。
ちなみに敗色濃い相手とは本気でやりあう事は殆ど無いけど、手の内は知っておきたいからとりあえず敵に手を渡す、というような事はする。将棋みたいなもんだ。
てか俺のやってるゲームだとこのネテロタイプは味方から『ゴミ』という烙印を押されるわけでな…。
俺も年喰ったね。
しかし、少年誌でここまでのテーマを描くとは、この富樫って漫画家は結構凄いんじゃないかと思う。駆け引きのシーンなんかはかなり手込んでるしね。ジャンプは富樫を飼い殺しにしてるんだろうけど、そんな使い捨てられる人材じゃないだろこの人は…。
そういえば、地味に3期の作画ではテクスチャを服の柄に使用するいわゆる岩窟王システムを採用してる。
よくみるとたまにそういうシーンになる。
ギタリストが孤独にリフの練習をしているのは実にオタク的で、もちろんこれはギターの練習に限らず、つまりバンドマンにちゃっかりとオタクがいるのはフシギではないと思うのだ。